清水寺と梅そして双龍図

0703-SANY0705
願いを込めてお参りをしてきました。


0703-CA260098
龍のごとく、母の術後を見守りたいと思います。
建仁寺
2002年に創建800年を記念して法堂の天井に描かれた小泉淳作画伯の双龍図です。

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    日本経済新聞2004年4月18日 朝刊
    遅咲きのひと
    不老の心 小泉 淳作 蕪と向き合い時間を描く
     その日、日本画家の小泉淳作(79)は神奈川県鎌倉市の自宅二階のアトリエで、墨を含んだ筆を丹念に動かしていた。目の前にあるのは一つの蕪(かぶら)。
     「葉を軸の所から切り捨て、何日も眺めていると、新しい葉が出てきて、やがて蕪の部分がしなびる。変化の映像を脳裏にきざみ、生々流転を一枚の画面に描く」。小泉はうした描写法を「時間を描く」と話す。
     蕪との出合いは二十年ほど前。京都・祇園の料理屋のカウンターに置かれていたその存在感にひかれた。以来、毎年、京都から四、五個取り寄せ、仕上げた蕪の画は二十枚にのぼる。
     二年前に出した「小泉淳作作品集」(講談社)を眺めると、素人目には「妙なものを描く日本画家」と映る。冬瓜(とうがん)や白菜、しなびた聖護院(しょうごいん)大根、ビート、筍(たけのこ)・・・・・・。
     「日本画というと、富土山や桜、舞妓(まいこ)などというきれいで空々しい素材を描くものが多く、生活感情が伝わらない。心を打つ美は、台所や身近な山河にいくらでも転がっている。心のアンテナを立てて感動するものがあったら、それを原動力に描くようにしている」
          ■
     芸術の深みは、そんなところにあるはず、と言いたげだ。彼が最近、野菜の他、八海山などの山を描くのにも、同じ意味が込められているに違いない。
     自らを「晩生(おくて)の画家」と言う。思春期には小説家を目指した。慶応大学予科(仏文)の同じクラスにいた四歳年上の安岡章太郎が書く短編を目にして「とてもかなわない」と断念。一九四三年慶大を中退、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入る。
     軍隊に召集され、体をこわす。療養生活後、復学。同校を卒業したのは二十七歳。画では食べて行けない。菓子箱や自転車のデザインをする副業で収入を稼ぐ。
     四十八歳のある日、デザインの仕事に使っていた机や道具を自宅の庭に放り出す。スポンサーのいいなりになるフリーのデザイナーに代わって、趣味で始めた陶芸で生活費を稼げるようになったからだ。
          ■
     「画だけで食べていけるようになったのは五十九歳」。団体展への出品もやめ、画壇の一匹狼(おおかみ)になる。直前、画風がルオーを思わせる西洋志向から東洋志向へと転換する。本人は四十五歳のときに出会った美術評論家、田近憲三の影響が大きかったと振り返る。
     田近に見せてもらった唐・宋時代の王維らの水墨画。画の中に潜む哲学に衝撃を受ける。その思いが熟成し、自ら水墨画を描き始めたのも五十九歳。七十五歳で鎌倉・建長寺法堂(はっとう)の天井に「雲龍図」、翌年京都・建仁寺法堂の天井に「双龍図」といった大作を完成させた。
     五歳で母を、十一歳で政治家だった父を亡くし、「無償の愛を知らずに育った」という。七十歳で妻に先立たれる。再び一人になった小泉は、アトリエで一つの蕪、一つの冬瓜と向き合い、生の変化の中に美を感じ取って筆を動かす。孤独がこの日本画家の内面を充実させ、作品の質を高めている感じがする。
     長年、旧友の画を見続けてきた安岡は小泉の五十代からの熟達振りに日を見張る。小泉の随筆集「アトリエの窓から」(講談社)の帯に一文を寄せる。
     「”個“がかれを魅(ひ)きつける。個に凝っているのだ。集団に対して小泉は頗(すこぶ)る冷淡のようだ。そこがいい」 

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