藤野祐彰先生 1985年 「あらはん」 3月号

「道院長はこいつだ」それはあまりにも唐突な話だった。
しかし、コトはさりげなく運んでしまったのである。
「ところで藤野、おまえ、引っ越したそうだが、今どこに住んでいる?」佐名木先生は、町田道院にやって来たとき、助教の藤野祐彰(当時、東京農大3年生、21歳)にこう尋ねた。
「小田急線の南林間です」
 何を思ったのか佐名木は、「ちょうどいい、南林間には俺の知っている人がいる。その人に会いに行こう」と、連れられて行った。
 その人は、藤野の家の近くに最近開いたとんかつ屋の主人・後藤通夫であった。そして佐名木は、こういってその人に紹介したのである。「今度、こいつ(藤野)が、座間の道院長をやりますから……」
 藤野が、ギョッとしたのは当然である。いきなり見ず知らずの他人に引き合わされて、しかも自分を道院長になる男だと言われたのだ。事前に何の話もなかった。しかも、藤野はまだ学生の身であったのだ。「ちょっと待ってください」
 当惑する藤野の言葉をさえぎって佐名木は、「いいや、もうわしは決めたんだ」と、きく耳を持たない。そして「おまえならできる」を連発されて、わけもわからず押し切られてしまった。
 話によると、その主人は少林寺拳法の熱心な支持者で、佐名木修の高津道院の顧問であった。新しく南林間にとんかつ屋を開いた主人は、佐名木に、この土地にも道院を開けといって、座間市を中心に門弟を集めてしまったのだ。

 ところが、佐名木の地元、川崎市の高津区とはだいぶ離れたこの土地で道院を開くことは困難であった。しかし、すでに門弟を集めてしまった顧問の努力を無駄にするわけにはいかない。そこで佐名木は、密かに藤野に白羽の矢をたて、強引に、一気にくどいてしまおうとしたのだ。
藤野はこれまで、自分で道院を開くなど夢にも考えたことはなかった。 

 途方にくれた彼は、町田道院の矢島先生(当時)に相談。
「おまえならできる。やってみろ」といわれ、やっと重い腰を上げざる決意を固めざるをえなかった。これまで学生同士のつき合いしか知らなかった自分が、いきなり大人の世界に、しかも目上の人を指導する立場の道院長として入ってゆかねばならないのだ。
 自分のような人間に、そんな重責が果たせるだろうか。辛い不安を、ただ自分は先生から見込まれたのだという“解釈”で慰めながら、フッ切るしかない。
 しかし、どう考えても、うまく乗せられてしまったなという印象をぬぐうことはできなかった。

 振り返れば、過去にもこんな形でうまく乗せられてしまったことがある。
 それは、まだ18歳の、大学1年生の時(三段)であった。「来週の水曜日、鶴川駅に午後5時に行け。人が二人待っている。和光大学へちょっと行ってくれ」
 自分が助教をしている町田道院の矢島道院長からこう言われたのだ。
 このとき彼は、誰か予定のコーチでも行けなくなったので、その日だけ、自分がピンチヒッターで行かされるんだなという程度に考えて承諾したのだった。
 ところが、行ってみると、和光大の二人の学生は、彼らの大学の拳法部の監督になる人物を迎えにきていたのだ。 こうして藤野は、一年生でありながら、24歳までの先輩もいる拳法部の監督として、以後三年間、務めたのであった。

 はじめは誰も「監督」など呼んではくれない。彼が水曜日に行ってみると、先輩たちは出てこない。当時を振り返って藤野は、やりにくかったけど、中には理解してくれる先輩もいて心強かったと話す。
 彼は、何とか自分をわかってもらおうと努力した。同級生や下級生は、町田道院に連れてきたり、藤野の自宅で一緒に酒を飲んで語り合った。
 そして、問題のある先輩に対しては、「実力行使しかない」。これが、これまでの藤野が肉体に刻みつけて得た人生哲学なのである。こうして片っ端からブッとばした。こんな荒療治を経て、やっと“監督業”が務まるようになったのだ。
 その後も大学関係では、(荒療治の必要はなかったが)玉川大学のコーチとなり、1983年からは桜美林大学の監督を務めている。

 藤野祐彰は、突然道院長という要職を押しつけられて、またあのときの、和光大学監督を引き受けさせられてしまったように、今度もうまく乗せられてしまったものだと思った。
 なぜか自分の人生には、いつもこのような形で転機がやってくる。
 今度も、逃げずにやってみようと、憂うつな気分を払拭するしかなかった。

 町田道院では山崎道院長が一年後、開祖に乞われて本部へあがり、矢島先生(現・川越道院・道院長)が道院長を務める。
 中学卒業後、農業高校に進学した藤野は、かならずいずれかの動物の世話をしなければならないということで、馬を希望した。当初馬は存在せず、その後も馬が来ることはあるまいと思ったからである。ところが馬もやってきて、結局馬術部まで創設させられるハメになってしまった。
 しかし、少林寺拳法の練習は一回も休まなかった。毎日の生活はといえば、朝四時に学校へ行き、馬にえさをやる。午前中は授業には出ないで昼ごろまで眠る。
 午後の実習に出て三時には終わり、馬術部の活動。少林寺の練習があるときは五時に自分だけ終わって道院へ行く。また翌日の朝四時には学校へ行く。この生活を高校の三年間つづけたのだ。
 少林寺拳法のよさについては、彼は彼なりにケンカの経験に照らして認識していた。顔にまで足があがってくるのは、彼が習った空手にもない。さらに相手につかまれてもいいし、殴りかかられてもよい。極めて実戦に役立つことを彼は肌で感じとれたのだった。

 入門した当時は、山崎先生の法話はまったく耳に入らず馬耳東風。
〈早く終わらないかなあ、早く技を教えてくれよ・・・〉
 そんな思いでいたのである。覚えた技は、もうその日のうちに試してみたくて、街でよからぬ連中をつかまえては『望まざる実技指導』”を彼らに与えていたのである。
 警察に補導されたことも何度もあり、藤野の名前は広く知れわたっていた。しかし警察では、「おまえはケンカはよくするが、カツアゲ(恐喝)だけはやらないな。それがおまえのエライところだ」と、へんな感心をされてもいたのである。
 そんな藤野もしかし、少しずつ変わりはじめた。あるとき、山崎先生から、「実はな、おまえを紹介してくれた先生は、少林寺拳法を破門されているんだ」と、きかされた。後に新聞をみせてもらって、大きく掲載された破門の記事も読んだ。
 改めて藤野は、少林寺拳法とは一体なんなのか、考えさせられてしまったのだ。
 通常、破門された者は、その団体の悪口をいって逆恨みするものである。ところがあの先生から、そんな言葉は一言もきいたことがないばかりか、自分に、いいものであるとすすめてくれたのだ。彼を破門した開祖のこともよく話してくれたのだった。
 さらに、入門するとき、紹介者としてその先生の名刺を渡したが、受け取った山崎先生は顔色ひとつ変えず、また何も詮索することなく、入門を許した。むろん山﨑先生からも、その紹介者の悪口など一言も聞いたことはなかった。

 座間には空手の道場がいくつかある。公開練習のとき、空手が道場破りにやってきた。練習が終わって見物人を送り出し、自分も帰ろうかとしたとき、三人の男たちがやってきた。
「なんの挨拶もなしに、こんなことされちゃ困るじゃないか」
 藤野は一言も口をきかず、彼らを誘うように表へ出た。依然黙っている藤野に一人が殴りかかる。それを待っていたかのように藤野は猛然と三人を次々にたたきのめしてしまった。その後、三人が所属する空手道場を訪ねてみると、そこの先生はたいへんいい人で、門弟たちの所業は知らなかった。
 道場開きから、一ヶ月のあいだに、道場破りはもう一回あり、このときも追い返している。さらに自宅を木刀もったやくざに取り囲まれたこともあった。
 不良グループややくざには藤野の名前は知れわたっている。高校生のころは、藤野の名をかたって狼藉を働く者もあった。ニセ者が現われることで、はじめてその実力と存在感が認められるといわれるから、当時から恐れられ、あるいは恨まれていたというのも当然といえよう。
 座間に少林寺拳法の道場ができて、道院長は藤野らしいとのうわさがすぐ流される。夜も、ちょっと顔を出せという電話がかかることがある。最終的には顧問の骨折りで事なきを得たという。「暴力にはそれ以上の力で立ち向かう必要がありますよね。それで相手はシュンとなりますよ。」藤野はこう、さらっと言ってのけるのだ。
 そして1977年、さらに相州共和道院をつくった。大学五年生のときである。

 藤野は、門下生の数を増やさないようにしているという。座間は現在45人、相州共和は18人。紹介以外は入門させず、それも年に一人か二人。それだけにいずれの道院も家族的雰囲気で門弟同士の交流も深い。練習を離れても、道院長の自宅で夜明けまで飲み、語り合うことも決してめずらしいことではない。今年は門下生同士の結婚が二組。みんな仲間意識が強く、時々バーベキューパーティーを開いたり、またバイクや車を乗り回すオトキチクラブなど、クラブが三つもある。取材で訪ねた日の夜も、道院長の自宅に門下生が数人集まった。
-道院長の武勇伝を聞かせてください。どのくらいあるんですか。
「そうですね、数限りないですね」
藤野と古くから一緒だという門下生の何人かは口々にそう笑いながら語る。
-たとえば?
「紫事件でしょう。それからコーヒー館事件。TOMORROW事件なんてのもあるね」-紫事件というのは?
「某大の国防部12,3人が相手でした。こちらは10人ぐらい。」
「でもあのとき、最初に殴ったのは野原ちゃんだよ。」話題は尽きることなく延々と続くのである。

 「私の場合は、地域に役立つ人を育て、教育しようなんて意識はあまりないんです。」と、藤野は語る。「今まで先生に恵まれ、先輩に恵まれました。いちばんすすめてくれたのはおふくろと兄貴ですけど、縁があって少林寺をやってきて、考えてみるといろんな人が自分をもりたててくれた。だから、人を育てるなんてあまり力まなくても、ほんとうに自分でいいと思って教え、一緒に飲み、寝泊りし、バイクに乗り、一緒に風呂に入ってシャンプーをかけてやるよとバスクリンをかけ合うような雰囲気でやってきた。すると彼らは、自分の職場に帰って、それなりの存在になっているんです。」
 あいつに宴会やらせるとうまくまとめる。運動会やってみろといわれればその準備をやってしまう。
あるいは酔っているようでいて、最後までめんどうをみる。あいつ何かやっているのかといわれれば拳法をやっている。
「そういうのが、うちは多いんです。それでみんな親しまれていれば、それでいいと思う。」(藤野) 人数を制限している道院だが、とくに子どもの数を増やさないようにしているという。座間は45人のうち14人、相州共和は2人しかいない。
 だいたい大会に出して賞をとらせることは、結局ランク付けすることだから気がすすまないと藤野はいう。「子どもは大好きですが、うちでは大会に出しません。しかも教育なんて大それたことはできませんよ。預かれる人数は10人くらいですね。」

 それでも子どもへの関わりには頭を痛めているようだ。
 あるときおしっこをもらした子がいた。他の子どもたちに笑われる。トイレに行くときは断って行くことになっている。そのとき、彼は叱った。親の話によると、深く心にキズついたという。
 それから一年後、別の子がまたおしっこをもらした。このときも他の子どもたちに笑われている。このとき藤野ははじめて一年前の失敗を反省した。あいつ、あのとき、ここでおこったからイヤになってしまったんだと。
 今度は、笑った子どもたちをおこった。
「おまえら笑うけどな、おまえらはしょっちゅう、さぼりがてらトイレいっていいですかなんて来るが、こいつはずっとがんばって、もらしたんじゃないか。大したもんだよ。」
 すると、もらした子が、ニコッと笑った。
 今度は、その子に対してこう言った。
「だけどな、おまえ、帰り、冷たいだろう。俺も床をふくのイヤなんだ。だからやっぱり出たくなったらはっきり言えよ。わかるか。」

この日の夕刻、練習場所の小学校体育館内は、7℃の寒さが身をひきしめていた。小学生もみな集中して練習に励んでいる。緊張感が漲っていた。小学生の女子も含めて、みな気を抜く者がいない。
 白帯が、ひとりもいない厳しさが、そこにあった。 (文中敬称略)

(本文は、1985年(昭和60年)3月号の「あらはん」に掲載された文章を、座間道院の拳士が記載したものです)

※2012年2月20日アーカイブデータより復元した記事となります。
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/water/zama/07.html

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